岐阜県大垣市

美濃国

近鉄養老線東赤坂駅下車

「源朝長の墓」巻は、「旧円興寺跡」と「源朝長之墓」、「旧円興寺仁王門跡」、
「源朝長墓参」の「芭蕉句碑」、「刀石」、「史跡源朝長墓」、「大炊家の墓」、
大きくないのに「灌頂大橋」(がんしょうおおはし)、「現円興寺」と国指定「木造聖観世音立像」、
「粉糠山古墳」、「昼飯(ひるい)の民家」、「青墓のよしたけあんと円願寺跡」、
「照手姫水汲みの井戸」などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

       

続東海道本線下り線ガード手前を北へ曲がって1.5kmほど進みます。

青墓5丁目追分  北緯 35度23分21.0秒  東経 136度34分07.2秒

県道214号線の途中に現「円興寺」への道標があります。左に進みます。
(大垣市青墓町4丁目(左)3丁目(右)の境)

源朝長之墓道標 大垣市青墓町5丁目   
北緯 35度23分24.7秒  東経 136度33分50.0秒

さらに北へ進むと道標があります
「史跡 源朝長之墓 是より右へ五丁」

その脇に古い道標があります
左円興寺 右朝長公御墓

Y字型の道を右へ

「源朝長之墓」と「旧円興寺跡」の表参道
大垣市青墓町5丁目   北緯 35度23分35.5秒  東経 136度33分43.6秒

表参道入り口には駐車場やトイレも整備されています。

案内板もあります。
道は多少複雑ですのでメモして登ったほうが
いいと思います。

この案内板は裏参道のものです

 

表参道からさらに数百メートル北へ進むと「裏参道」口があります。
距離的には裏参道が短いのですが、うっそうとした山道は気味が悪いので表参道を登りました。

表参道を入ると道幅は広くて車でもいけそうですが、此れは上流で「防災

仁王門跡と推定される場所まで10分くらいです。
この付近には他に句碑などもあります

仁王門跡              大垣市青墓町   
北緯 35度23分44.0秒  東経 136度33分56.1秒

仁王門跡推定地
この地は、創建当時の円興寺任王門の立てられていた場所と推定されます。金剛力士像とは本来金剛杵を持った夜叉の像が二体並んで寺門を守るので二王(仁王)と呼ばれます。右を那羅延金剛、左を蜜述金剛と呼ぶこともあるが、本来は蜜

朝長之墓にお参りした松尾芭蕉の句碑   大垣市青墓町   
北緯 35度23分秒  東経 136度33分秒

正徳二年(1712年)刊 京都萬屋喜兵衛版
「花の市」寸木撰に所載
美濃の里朝長の墓にて

苔埋む蔦のうつヽの念仏哉

俳聖松尾芭蕉の身の来遊は、貞享・元禄難関前後
四回に及び、そのつど大垣を訪れ、
谷九太夫を始め多くの門弟友人と信仰を深めた。
その際芭蕉がここ円興寺山の
源朝長之墓に詣で詠んだ句です。

仁王門跡からさらに数百メートル登ると道標があります

道標から数メートルのところに「刀石」があります

刀石   北緯 35度23分秒  東経 136度33分秒

源朝長公の墓へお参りするとき礼儀として帯刀を一時預けておくためのもので「刀石」と呼ばれています

史跡 源朝長 墓  大垣市青墓町   
北緯 35度23分48.5秒  東経 136度33分00.8秒

源朝長の墓「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の一行(8人)は、平治元年(1159年)十二月二十七日 京都から逃れ、美濃国における源氏の拠点、東山道青墓宿にたどり着きました。

源朝長(ともなが)は源義朝(知多半島の家来の家で風呂に入っているときに討たれる)
の次男で頼朝、義経の兄にあたります・

源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。

大炊家之墓   北緯 35度23分秒  東経 136度33分秒

大炊家の墓
大炊(おおい)氏は、「壬申(じんしん)の乱」で活躍した多臣品治(おおのおみはむじ)の孫で、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)の地である美濃国の多(おおい)地方(後世東大寺領になる頃には大井荘とよばれた)の荘官(しょうかん)でしたが、この青墓の地に移り住み、
姓を「大炊」と改めのが始まりであると伝えたれます。平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の
娘「延寿」は源義朝の側室となり息子達も源義朝や義平に仕えるなど源氏の家臣であり、外戚でもありました。

「旧円興寺跡」へ行く予定で展望台へ出てしまいました

旧円興寺跡   大垣市青墓町   北緯 35度分秒  東経 136度分秒

画像準備中

「円興寺」は信長により焼かれました

延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得てこの山に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。

その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、その他坊舎など百余カ寺、寺領五千俵と伝えられています。

天正二年(1574年)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658年)に麓に移して立てられました。

(途中、地図を読み間違い旧円興寺跡にはいけませんでした)

 

画像準備中

元円興寺跡
(現円興寺は麓に再建されています)

 延暦九年(790年)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて山頂付近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を創建されたと伝えられます。

 当時は、坊舎末寺など、百余ケ寺、寺領五千俵を領し、山麓一帯は多数の仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われます。

 天正二年(1574年)織田信長の兵火に罹り、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、慶長元年(1596年)田之堂(ふもとの現在地)に本堂と五坊とが再建されました。

 しかし、承応元年(1652年)雷火によって再び焼失した際に、この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(1658年)偏在の円興寺がこの山の麓西に建立されました。

  展望台 

麓へ下りて現「円興寺」へ行く途中にある小さな橋ですが名前は「大橋」

灌頂大橋(がんしょうおおはし) 大垣市青墓町  
 
北緯 35度23分41.0秒  東経 136度33分34.5秒

このあたりは「大垣市青墓町5丁目」

「がんしょう橋」の由来がありましたが意味がよく分からない由来でした。

「がんしょう橋」を渡るとすぐに「円興寺」が見えてきます。

「円興寺」  大垣市青墓町5丁目  
 
北緯 35度23分44.4秒  東経 136度33分23.4秒

山頂の「円興寺」は信長により焼かれました
延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て山頂に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、その他坊舎など百余カ寺、寺領五千俵と伝えられています。天正二年(1574年)織田信長により焼かれ田之堂を経て万治元年(1658年)にこの地に移して立てられました。

木造観世音立像  

難を逃れた観世音菩薩像

山頂にあったあった「旧円興寺」が天正二年(1574年)織田信長により焼かれましたが本尊の観音像は難を逃れ
万治元年(1658年)にこの地に移して「円興寺」が立てられ祀られました。

 

国指定重要文化財
「木像聖観音立像」
(詳しくは中山道美濃路十六宿後編「源朝長の墓」でどうぞ)

元の「中山道」へ戻って「東海道本線下り線」のガード(大垣市青墓町)をくぐって西へ。

ガードをくぐってすぐに北へ入る道があります。
この道を北へ進むと100m位で西側に「粉糠山古墳」が見えてきます

古墳の上にお墓
粉糠山古墳のほとんどが墓地になっています。
現在なら文化財保護違反になりそうですが古墳の上にお墓を作ってなぜ悪い!
と言うような理論が先行したのではないでしょうか

粉糠山古墳     大垣市青墓町1丁目   
北緯 35度23分03.0秒  東経 136度34分04.7秒

粉糠山の由来
この塚はここ青墓の宿場が盛んな頃、遊女達が朝夕の化粧に使った粉糠を捨てたのが
積もり重なって小山となったので、「粉糠山」と呼ばれるようになったと言う伝説があります。

 青墓の「粉糠山古墳」は「前方後墳」としては東海地方で最大規模で、
長さ
100m、後方部一辺の長さ50m、前方部の幅は45mもあります。

粉糠(こぬか)山古墳

粉糠山古墳は墳長100mで東海地方でも有数の規模を誇る「前方後墳」です。
4世紀の尾張から5世紀におけるこの地方の有力な豪族の墓と伝えられる
古墳時代を偲ぶ貴重な遺跡です。

延長寺               大垣市青墓町1丁目  
北緯 35度分秒  東経 136度分秒

 

白髪神社  大垣市青墓町1丁目  
北緯 35度22分56.2秒  東経 136度33分55.2秒

 

昼飯の民家                       北緯 35度分秒  東経 136度分秒

固定資産税が心配な家ばかり 

青墓のよしたけあん円願寺跡 大垣市青墓町2丁目  
北緯 35度22分50.9秒  東経 136度33分45.4秒

落のびる「牛若」
平治の乱(1159年)で元治が敗れたあと、父「源の義朝」は知多半島で討たれ、兄「頼朝」ともは離ればなれ二なり、「牛和k丸」が、奥州の「金売り吉次」一行に隠れ「東山道」の当地 青墓で休息したたとき、持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦、竹となれ」 と読んだ場所と伝えられています。

青墓は美濃源氏の拠点
(詳しくは中山道美濃路十六宿後編「源朝長の墓」でどうぞ)

「よしたけあん」の向かい電柱の脇に小さな石碑があります

「照手姫水汲井戸」とあります
石碑を南へ100mほど進むと伝説の「井戸」が見えてきます。

照手姫水汲井戸  大垣市青墓町2丁目  
北緯 35度22分48.9秒  東経 136度33分46.4秒

伝説「小栗判官と照手姫」
昔、武蔵・相模(むさし・さがみ)の郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいました。
「小栗判官正清」と相思相愛となりますが、判官は便代の家来に毒殺され、彼女は悲しんで放浪の末、人さらい遭い、この地の青墓長者の元へ売られてきてした働きとしていじめ抜かれました。
一方、判官はその後霊泉につかり蘇生して、照手姫を探し出して妻に迎えたと言う伝説があります。

小栗判官正清と照手姫伝説は藤沢市の「遊行寺」にもあります。
小栗判官の名前も内容も少し違いますが、
昔 かなり有名な実話がいろいろ変えて伝わったと思われます。

小栗判官照手姫の伝説(藤沢遊行寺)
(詳しくは中山道美濃路十六宿後編「源朝長の墓」でどうぞ)

「伝説の井戸」

 伝説の井戸は、長者にいじめられ、カゴで水を汲めと無理難題を
 押し付けられ、十八町(約2km)も歩き、
風呂の水を満たした井戸と言われています。

浄瑠璃にもなった「照手姫井戸」
昔、武蔵・相模の郡代の娘で「照手姫」と言う絶世の美人が居ました。
この姫と相思相愛の「小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。
「照手姫」は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところでまで売られてきました。
長者は、その美貌で客をとらせようとしますが、姫は拒み通しました。
怒った長者は一度に百等の馬に餌をやれとか、
篭で水を汲めとなどと無理な仕事を言いつけました。
一方毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、「照手姫」が忘れられず、姫を探して
ついに見つけ妻に迎えました。
この井戸の跡は「照手姫」が篭で水を汲んだと伝えられるところです。

美濃地方での「照手姫」伝説
鎌倉街道
(詳しくは中山道美濃路十六宿後編「源朝長の墓」でどうぞ)

町屋観音堂     北緯 35度分秒  東経 136度分秒

町屋観音堂

町屋観音堂
 照手姫の護持仏と言われる黄金仏を頭上にいただく十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀(せんだん)木の作です。
 その像を祀る観音堂です。

照手姫伝説
 慶永30年(1424年)小栗判官と結ばれたい照手姫はお告げにより、明神神社(結神社)へ願を掛けたところ願いが叶い守護仏を神社に納めました
 有為転変の末、平成の代に今の地にお堂が建てられました。

結神社にまつわる照手姫(てるてひめ)伝説
(詳しくは中山道美濃路十六宿後編「源朝長の墓」でどうぞ)

照手姫が結ばれた「結神社」  
北緯 35度分秒  東経 136度分秒

安八の「鎌倉街道」沿いの西結にある「結神社」(嘉応年間(11691171年)の創設。

 常陸国の小栗判官殿再会を願った相模国の照手姫が願をかけたところ、のちに結ばれたので「結神社」と言われるようになった伝説が残ることから、縁結びの神として信仰を集めています。

 境内には、側神像群、石狛犬、御手洗鉢、など町指定の文化財も数多くあります。
 このあたりの地名もこの神社から由来しています。

此処で美濃地方の古道「鎌倉街道」を紹介したいと思います。

       


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